ジョン・レノンはなぜ殺されたのか?
ビートルズのギターボーカルとして世界中で人気を集め、ソロ活動を始めてからも多くの名曲を残したジョン・レノン。
今回は彼がアメリカ、ダコタ・ハウスの前で殺害された日のことを詳しくお話したいと思います。
反戦や平和を強く訴えていた彼に何が起きたのでしょうか?
もくじ
ジョンが射殺された!
ビートルズおよびジョンのファンにとって、忌まわしいあの日がまた近付いてきました。
1980年12月8日、ジョンは、妻のヨーコと暮らしていたニューヨーク市のダコタビル(通称ダコタ・ハウス)の入口で射殺されました。
彼は、まだ40歳という若さでした。
午前はインタビュー
この日、彼は9時45分ごろRKOラジオのインタビューを自宅で受けました。
インタビュー時間は90分でした。
午後はフォト・セッション
正午を少し過ぎたころ、ローリングストーン誌のカメラマンのアニー・リーヴォビッツがフォトセッションのためジョンのアパートを訪れ、午後2時から3時30分まで撮影をおこないました。
これが2人で一緒にポーズを取った最後の写真撮影となりました。
ジョンとヨーコは、RKOのスタッフとともに午後5時にダコタ・ハウスを後にしました。
彼らが車に乗り込もうとすると、ジョンは何人かのファンからサインを求められたのですが、その中に病院に勤務してした25歳のマーク・デイヴィッド・チャップマンがいました。
ジョンは殺人犯にサインしていた!
ジョンは、チャップマンが持っていたリリースしたばかりのジョンのアルバム「ダブル・ファンタジー」にサインした後、彼は、「これで良いかい?」と尋ねました。
チャップマンは、頷(うなず)きました。
この男こそジョンを射殺した犯人です。
しかし、この時はごく普通のファンとしてふるまっていました。
このやり取りは、ジョンのファンのポール・ゴレシュが撮影しました。
ジョンの右側に写っている人物です。
夜はレコーディング
レコード・プラント・スタジオで、ジョンはリードギターを弾いてヨーコの曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」をミキシングしました。
この夜のセッションの合間にジョンは、イギリスに住んでいる育ての親のミミ叔母さんに電話しました。
また、ダブルファンタジーをリリースしたゲフィン・レコードを経営するデヴィッド・ゲフィンから、リリースして2週間でゴールドディスクを受賞したとニュースで報じられていたとの報告を受けました。
なお、このジャケット写真は、日本の写真家の篠山紀信が撮影しました。
レコーディングは、午後10時半に終わりました。
ジョンとヨーコは、食事に行こうかと話し合いましたが、その前に5歳の息子ショーンにおやすみを言うために、ダコタ・ハウスに戻ることにしました。
ショーンは、彼らの助手であるフレッドの叔母ヘレン・シーマンが大切に面倒を見ていたのです。
運命の午後10時52分
その日は、12月の遅い時間帯にもかかわらず暖かかったのです。
ダコタ・ハウスは安全な中庭で駐車できるようになっていたのですが、ジョンとヨーコは、リムジンを自宅近くの72番通りで停めて歩いて帰ることにしました。
もし、その日が寒かったなら、彼らは、中庭まで車から降りずに無事に自宅へ帰れたかもしれません。
ジョンは、ヨーコの少し後ろを歩いていました。
彼らがダコタ・ハウスの中庭につながる道に近づくと、チャップマンが物陰から現れたのです。
時間は午後10時52分でした。
その時、チャップマンは、コンバット・スタンス(両足を肩幅よりやや広く開き、両腕を伸ばして拳銃をしっかりと両手で握った状態で構える姿勢)をとっていたといわれており、ジョンに向けて拳銃から5発のホローポイント弾(殺傷能力を高めるために弾丸の先端に凹レンズのようなくぼみを持たせたもの)を発射しました。
彼が使用したのは38口径の特殊なリボルバーで、1発目は外れてジョンの頭上を通過し、ダコタ・ハウスの建物の窓を貫通しました。
2発目はジョンの背中の左側に命中し、残りの2発は左肩を突き抜けました。
これらのうち少なくとも1発が彼の大動脈を損傷したのです。
ジョンは、ダコタ・ハウスの階段を6段上がって玄関に入ると、「撃たれた」と言って倒れました。
ジョンが以前にレコーディングしたテープが床に散らばりました。
管理人は、すぐに彼の青い制服をジョンにかけ、警察に通報し、ジョンの眼鏡を外しました。
ヨーコは、彼が口から血を流しながら「Help」とささやいたので、ジョンの頭を抱き抱えました。
管理人は、ジョンを安心させようと「大丈夫です、ジョンさん、大丈夫ですよ」と話しかけました。
外では、ドアマンがチャップマンの手から銃を奪い取り、手の届かないところまで蹴飛ばして言いました。
「おまえは、自分が何をしたか分かっているのか?」
すると、チャップマンは、冷静に「ああ、オレはジョンを撃った」と答えました。
銃は近くの茂みで、チャップマンがジョンからサインをもらったダブルファンタジーとともに発見されました。
彼は、警官が来るまで「ライ麦畑でつかまえて」というサリンジャーの小説を読んで待っていました。
ニューヨーク市警の2人の警官が現場に到着すると、ダコタ・ハウスの壁際にチャップマンを立たせ、他に武器を隠し持っていないか身体検査しました。
鍵、小説、現金で2000ポンドが入った財布が発見されました。
警官は、チャップマンに手錠をかけ、銃を押収しました。
ヨーコは、やめてくれと頼んだのですが、警官は、ジョンを仰向けにして負傷の程度を確認しました。
警官は、「あなたの名前は?」と尋ねると、ジョンは、苦しい息の中でやっと「ジョン」とだけ答えました。
現場に駆け付けたほかの2人の警官は、救急車を待つ時間的余裕がないと判断し、自分の自動車にジョンを乗せて病院へ連れて行くことにしました。
警官は、1人がジョンの足を持ち、もう1人が脇の下を抱えて後部座席に乗せ、最寄りのルーズベルト病院に運びました。
警官は、ジョンが意識不明にならないよう、彼に話しかけました。
「あなたは、自分がジョンだということが分かっていますか?」と尋ねると「私は」という返事がありました。
「どう感じますか?」「痛い」と答えたことが報告されています。
警官は、運転しながら病院に連絡しました。
その後ろには、もう1台別のパトカーが続き、ますますヒステリックになっていくヨーコを乗せていました。
病院に到着すると、ジョンはストレッチャーに乗せられ、救急室に連れて行かれました。
ヨーコは、息子のショーンの安否を確認するためにダコタ・ハウスに電話しました。
ジョンは、心肺停止状態だったので、20分間医師が心臓マッサージを試みました。
病院のスタッフが懸命に輸血や手術をおこないましたが、医師は、1980年12月8日午後11時7分、ジョンの臨終を確認しました。
医師は、午後11時15分にヨーコにジョンの死を告げました。
ショックからまだ立ち直っていなかったヨーコは、「彼は眠っているんですか?」と尋ねました。
気が動転して彼の死が受け入れられなかったのでしょう。
死因は、全身の血液の80%以上が失われたことによる失血死と報告されました。
チャップマンが殺傷能力の高い弾丸を使用したため、ダメージがより大きくなったのです。
ジョンの死は、世界中の人々を驚かせ、悲しみのドン底に突き落としました。