ビートルズを手放してしまったトホホな人たち~デイック・ロウ、デッカレコード
前回、ビートルズを手に入れるチャンスに恵まれながら、みずから手放してしまったトホホな一人、アラン・ウィリアムズをご紹介しました。
この記事では、ビートルズを手放してしまったもう一人の残念な人物をご紹介しましょう。
ちなみにアランウィリアムズはこちらの記事で紹介しています。
もくじ
ビートルズを拒絶した男〜デイック・ロウ、デッカレコード
ビートルズをオーディションで落とした!!
ビートルズは、1962年1月1日、ロンドンでデッカレコードのオーディションを受けました。
彼らがレコード会社のオーディションを受けたのはこれがはじめてでした。
このオーディションにのぞむ前に、ビートルズとマネージャーのブライアン・エプスタインとの間で意見が対立しました。
ビートルズは「自分たち本来のワイルドなスタイルを出した選曲でいくべきだ」と主張しましたが、ブライアンは「それではレコード会社の気に入られないからもっとおとなしい選曲にすべきだ」と主張し、結果的に彼らもそれに従いました。
最悪のコンディション
運転手がロンドンの地理にあまり詳しくなく、しかも大雪が降ったため、彼らがデッカに到着したのはオーディションの始まる直前でした。
また、彼らが持ち込んだアンプなどの機材があまりにショボかったので、デッカのものに変えるようスタッフから要求され、彼らは気分を害しました。
でも、これはスタッフの主張の方が正しかったんです……。
何しろ彼らが持ち込んだアンプは小さい木製、貧弱で音が拾えないしノイズは多いといった、およそ収録に必要な音源すらマトモに拾えない代物でした。
そんなこともありましたが、彼らはオリジナル曲3曲を含む15曲を1時間にわたって一生懸命演奏しました。
彼らは、緊張のあまり演奏やハーモニーを合わせられず、途中で演奏を止めてしまったのもありました。
そのため、セッションはそれほどうまくはいかなかったとは思いつつも、きっとデッカは自分たちと契約してくれるだろうと確信しました。
結果は不合格!!
「ギター・グループはいずれ消えていく存在」
しかし、数週間後に告げられた結果は不合格でした。
当時、デッカの新人担当部門のチーフであったディック・ロウは、ブライアンに「Guitar groups are on their way out, Mr Epstein(ギター・グループはいずれ消えていく存在ですよ、エプスタインさん)」と冷たく告げたんです。
この言葉は、後世まで歴史に刻み込まれることになります。
彼は、この一言で後年、「The man who rejected the Beatles(ビートルズを拒絶した男)」というありがたくない称号をもらうことになります。
さらに続けて「ビートルズにショー・ビジネスの世界で未来はありません。あなたは、リヴァプールで成功してるんですから、そちらへ帰った方がいいですよ」と追い打ちをかけました。
しかし、ブライアンも負けてはいません。
「あなたはどうかしている。私は彼らがエルヴィス・プレスリーをしのぐ大物になると確信しています」と涙ながらに言い返します。
いやはや、この情熱たるや大したもんです。
後にこの頃のビートルズが映画化されましたが、そのワンシーンでこのやり取りが描かれています。
他のギター・グループと契約した
実はこう言いながら、デッカは、別のブライアン・プール&ザ・トレメローズというギター・グループと契約してるんです。
ロウの部下のスミスは、「このグループとビートルズの両方と契約すべきだ」と主張しましたが、ロウから「どちらか一つだけを選べ」と言われ、やむなく会社があるロンドンが出身だというただそれだけの理由でトレメローズの方を選んだのです。
ロウはデモ・テープすら聴いておらず、スミスの言うことをうのみにしたわけです。
これは、「音楽史上、有数の誤った決断だった」とされています。
前回ご紹介した元マネージャーのアラン・ウィリアムズは、ビートルズをプロとして一人前になるまで彼らの面倒を見ました。
結果論ですが、ハンブルク巡業で彼らを鍛え上げたのも彼です。
その意味で、まだウィリアムズにはビートルズに貢献した功績は認められますが、ロウに関してはまったくその余地はありません。
ただ、幸運なことに、デッカはその後ビートルズの大成功に慌てて、ジョージ・ハリスンの紹介でローリング・ストーンズと契約するんですけどね。
何とか帳尻合わせはしたというところでしょうか(笑)。
さすがのビートルズも落ち込んだ
この予想外の結果にはさすがの彼らも相当落ち込みました。
ジョン・レノンは、「僕らは、これでもうおしまいだ」「僕らの選曲でやっていれば合格できたはずだ」と嘆きました。
ポール・マッカートニーは、「テープを聴く限り、僕らが不合格になった理由がわからない。たしかに、そんなにいい出来じゃなかったけど、サウンドは興味深くてオリジナルだった」と不満を述べています。
そして、「自分たちの主張したとおりにやっていれば合格できたはずだ」「今後、音楽に関しては一切口を出すな」とブライアンにくぎを刺しました。
もちろん、ブライアンも従わざるを得ませんでした。
幸運の女神は見放さなかった
パーロフォンが救いの神となった
ところが、これがおもしろいところなんですが、この選曲が後にオーディションを受けるEMI傘下のパーロフォン・レコードのジョージ・マーティンに気に入られることになります。
彼は、ロック一辺倒ではなく幅広いレパートリーを持つ彼らに興味を持ったといいますから、世の中わからないものです。
不合格とはなったものの、デッカのオーディションを受けたことは、決して無駄ではありませんでした。
そのおかげで彼らは、最新の機器で録音したオープン・リールのデモ・テープを手に入れられたからです。
ブライアンは、なお諦めずにこのテープを持ち込んでロンドン中のレコード会社と交渉しますが、みんな断られてしまいます。
「こんなレベルの演奏だったら、リヴァプールで今まで通りやっておいた方がいいよ」と軽くあしらわれてしまいます。
ですから、見る目がなかったのは何もデッカだけじゃなかったんですよ。
むしろ、目を付けたパーロフォンが偉いんです。
たしかに、デッカの最新技術をもってしても、音源の悪さはどうしようもありませんでした。
それを度外視して彼らの才能に気が付いたら、むしろその人を褒めるべきです。
HMVレコード店のマネージャー、ボブ・ボーストは、ブライアンに対し簡単に再生できるようにテープをレコードに記録しなおすよう勧めました。
さっそく、彼はボーストの店でそれをレコードにプレスします。
しかも、この時ドラマーはピート・ベストでリンゴ・スターではありませんでした。
このまま合格していたら、リンゴ不在でデビューしたことになります。
それで成功できたかどうか。
ピートのドラムは平板で重く、緊張感が感じられませんでしたから。
運よくメジャーデビューできたとしても、早い段階でほかの3人についていけなくなったでしょう。
レコード技師のジム・フォイは、レコードを聴いて感銘を受け、オリジナルが3曲あることに驚いて、音楽の出版会社であったアードモア&ビーチウッド(EMIの子会社)のシド・コールマンに連絡します。
コールマンは演奏を気に入り出版を持ち掛けますが、ブライアンの狙いはあくまでレコード・デビューでした。
そこで、コールマンはパーロフォン・レコード(EMIの子会社)の新人開発部の部長でプロデューサーであったジョージ・マーティンを紹介します。
マーティンがこのテープを聴き、ビートルズに関心を持つことになりました。
この世の中何が幸いするかわかりません。
というより、ブライアンの必死の努力が幸運の扉のドアをつかんだのでしょう。
ディック・ロウは自分で自分を蹴っ飛ばしている
死ぬまで蹴っていればいい
ビートルズが成功した後、友人が「ビートルズとの契約をしなかったことで、ディック・ロウは自分で自分を蹴っ飛ばしているに違いない」と言ったのをジョンが聞いて「死ぬまで蹴っていればいいさ」と言い放ちました。
そして、たまたまロンドンで彼らがスミスと歩道で出会った時、一斉に人差し指と中指を真っすぐに伸ばして額に当てあいさつしました。
「どうだい、オレたちはあんたらを見返してやったぜ」というところでしょうか。
才能に気づくことの難しさ
「新人の才能に気づく」ことははプロでも難しい、いや、プロだからこそかえって先入観や経験値で判断してしまい、真の実力を見抜けないのかもしれません。
あの伝説のバンド、QUEENですらデビュー当時は評論家から「時代遅れのグラムロックみたいだ」などと酷評されたのです。
グラムロックとは、70年代初頭に流行したデヴィッド・ボウイやTレックスなどに代表されるジャンルです。
しかし、日本の女性ファンがいち早く彼らの魅力に気づいたのです。
日本でブレイクした彼らは、やがて英米でも認められ、世界的アーティストに上り詰めました。
ビートルズの才能に気付かず大失敗したデッカの教訓は、またしても生かされなかったのです。
ライタープロフィール
ビートルズの熱狂的ファン
和田晋司
大阪府出身 ビートルズのファン歴ウン十年。
色んなものに手を出しましたが、唯一続いている趣味がこれです。
ビートルズの語り部として彼らの偉大さを後世に伝えていきたいと思っています。
ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ