ビートルズを手放してしまったトホホな人たち~アラン・ウィリアムズ
今回ご紹介するのは「ビートルズを手に入れながら、手放してしまったトホホ人たち」です。
中でも彼らのパートナーとなって大成功する絶好のチャンスに恵まれながら、自らそれを手放してしまった代表格ともいえる二人をご紹介します。
今回ご紹介するのは、そのうちの一人目、アラン・ウィリアムズです。
もくじ
ビートルズを手放しちゃった!
ビートルズのメンバーではなかったのですが、彼らのパートナーとなることで大成功する絶好のチャンスを逃してしまった残念な人たちです。
「まさか、そんな人がいたなんて信じられない」と思う方も多いかもしれません。
ビートルズといえば、デビュー以来半世紀が過ぎても全世界の子供からお年寄りまで名前ぐらいは知っているスーパースターです。
そんな彼らのパートナーになるチャンスを自ら捨ててしまうなんてありえませんよね?
でも、彼らの下積み時代にその才能に気付いていた人はごく少数でした。
もちろん、地元のリヴァプールの若者たちは、熱狂的な彼らのファンでした。
しかし、彼らはあくまでファンであって音楽のプロフェッショナルはありませんでした。
しかも、リヴァプールといえばロンドンから遠く離れた地方都市です。
そこでいくら売れていても、しょせんはローカルバンドの一つにすぎませんでした。
彼らの才能に気づかずに通り過ぎてしまったプロはたくさんいました。
この記事ではそのうちの1人を紹介しますね。
初代のマネージャー
プロを目指していたビートルズ
ビートルズのマネージャーとしては、ブライアン・エプスタインが有名です。
しかし、実は彼は二代目で、初代のマネージャーはアラン・ウィリアムズという男だったのです。
ジョン・レノンは、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンらとともにビートルズを結成しました。
スタートはアマチュアバンドでしたが、それに飽き足らなかった彼らは、プロミュージシャンになりたいと切望していました。
マネージャーが必要だった
彼らは、プロミュージシャンとしてはまだまだ発展途上で毎日練習しなければならず、その成果をステージで披露する機会、そして何より食べていくための報酬が必要でした。
しかし、彼らは音楽の才能には恵まれていたものの、マネジメントの才能はありませんでした。
音楽に専念したい彼らがプロになるためには、マネジメントを引き受けてギャラを稼げる仕事を取ってきてくれる人物がどうしても必要だったのです。
一方、「ジャカランダ」というクラブのオーナーであるアラン・ウィリアムズは、自分のクラブで演奏してくれるロックバンドを探していました。
彼自身も一クラブのオーナーの地位に満足しておらず、すでにほかのバンドのマネジメントを手がけていました。
1960年5月中旬、ウィリアムズは、ビートルズの実力を認めて彼らのマネージャーを引き受けることにしました。
彼は、さっそくビートルズに仕事を見つけてきてくれて、彼らはプロとしての道を歩み始めたのです。
その頃のビートルズにはロックバンドには不可欠なドラマーがおらず、彼らが足しげく通っていた「カスバ・コーヒークラブ」のオーナーである、モナ・ベストの息子のピート・ベストをドラマーとしてメンバーに加えました。
ベーシストとしてスチュアート・サトクリフも参加し、ようやくビートルズはロックバンドとしての形を整えました。
ハンブルクへの巡業
はじめてのハンブルク
1960年8月にアラン・ウィリアムズの下へ、西ドイツのハンブルクの知人のブルーノ・コシュミダーが経営するクラブで演奏するバンドを紹介してくれというオファーが来ます。
ビートルズは、その話に飛びつきました。
週100ポンド(実際には一日2.5ポンド)とリヴァプールでの仕事よりはるかに高額でしたし、何より自分たちのプロとしての実力を買ってくれる人物が現れたんですから。
ウィリアムズの運転するバンに機材を乗せて、フェリーでハンブルクを目指しました。
ハンブルクでメキメキと実力をつけたビートルズ
ビートルズは、ハンブルクでの仕事にはありつけたものの、労働条件は過酷でした。
彼らがはじめて演奏したのは、「インドラ・クラブ」というナイト・クラブでした。
1960年8月17日から48日間、毎日、朝から夜まで演奏を続けました。
ロクな宿泊施設も当てがわれず、映画館奥のトイレ近くの部屋で悪臭と寒さに悩まされながら寝起きしていました。
それでも彼らは、一流のミュージシャンになりたいというハングリー精神で耐え続けたのです。
彼らが演奏していると、それを物足りなく感じたクラブの支配人は、「マッハ・シャウ!(ドイツ語でもっとショーを見せろというような意味)」とステージに向かって叫んで盛んに彼らをあおり立てました。
彼は、十数年前まで銃をかついで戦争に参加していたバリバリの軍人でしたから、それは恐ろしかったでしょう(笑)。
ガンガン演奏しまくった
なにせ、お客といえばそれでなくても気性の荒い船乗りが多く、おまけにしたたかに酒を飲んでいますから、大人しく演奏したって聴いてくれるはずがありません。
それでビートルズは、ガンガンボリュームを上げて、声を張り上げました。
リヴァプールがホームなら、ハンブルクは完全なアウェイでした。
客を喜ばせるために演奏だけでなく、さまざまなパフォーマンスを見せて笑わせました。
そんな風にもまれながら、彼らはステージでどうすればお客が喜んでくれるかを肌身で感じ取り、メキメキ実力を付けていったのです。
そのことは、ジョンの次の言葉に象徴されています。
「オレたちを育てたのはリヴァプールじゃない。ハンブルクだ」
これはハンブルク時代の彼らの演奏です。
9ポンドでビートルズを手放した!
手数料でモメた
こうしてウイリアムズは、ビートルズのマネージャーを続けていましたが、手数料の支払いを巡って彼らとモメてしまいました。
彼らは、ウイリアムズの手数料が高すぎると支払いを拒否したのです。
ビートルズと険悪な関係となったウィリアムズは、マネージャーの地位をブライアン・エプスタインに譲渡してしまいました。
たった9ポンド、現在の貨幣価値に換算すると5万円位でしょうか?
後を継いだブライアンは、ビートルズが絶対に成功すると信じ、彼らがメジャーな存在となるよう献身的に売り込みました。
彼は、粘り強く数多くのレコード会社と交渉しただけではなく、ビートルズを売り込むためにありとあらゆる戦術を展開しました。
そのおかげでビートルズは、大ブレイクを果たしました。
ウィリアムズは、彼らを手放した代わりに「たった9ポンドでビートルズを手放した男」という有難たくない称号をもらうことになりました。
評価を見直すべき
彼は、回顧録で「まさかビートルズがあれほど売れるとは予想できなかった。当時、リヴァプールには似たようなバンドが300はあったんだから。彼らがエリザベス女王からMBE勲章を受賞するシーンをテレビで見たときは、思わずソファのクッションをテレビに投げ付けたよ」と語っています。
私もかつては彼を批判的に見ていましたが、最近になって少し考えが変わりました。
プロとはいえ、まだヨチヨチ歩きだったビートルズを大勢の観客の前に立たせて、彼らを熱狂させるだけの実力をつけさせたのは、正にウィリアムズだったからです。
意図したわけではありませんが、彼らをハンブルクへ連れて行き、プロとしてのテクニックや根性を付けさせたのは彼です。
とはいえ、まったく無計画で連れて行ったわけではありません。
事前に彼はハンブルグを訪れ、その音楽シーンに接してビートルズならここで受けるはずだと彼なりに計算していたんです。
私は、メジャーデビュー前のビートルズに真の実力を付けさせた人物という観点から、彼に対する評価を見直すべきだと考えています。
ライタープロフィール
ビートルズの熱狂的ファン
和田晋司
大阪府出身 ビートルズのファン歴ウン十年。
色んなものに手を出しましたが、唯一続いている趣味がこれです。
ビートルズの語り部として彼らの偉大さを後世に伝えていきたいと思っています。
ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ